観察するということ

私たちは、日々の中で多くのものを「見ている」ようで、実際には「見えていない」ことが多いのかもしれません。
人の言葉を聞きながら、心のどこかで次に何を言おうかを考えている。
風景を眺めながらも、頭の中では仕事や不安がぐるぐると回っている。
そんなとき、目の前の世界は確かに存在しているのに、心はそこにいません。

「観察する」とは、単に目で見ることではありません。
自分の中に生じる反応を、少し距離をとって見つめること。
心が波立った瞬間、その波を押さえつけるのではなく、「今、波が立っている」と気づくこと。
その小さな「気づき」が、調和の入口です。

私たちは、自分を“正そう”としすぎるあまり、観察する前に判断してしまうことがあります。
たとえば、「怒ってはいけない」「落ち込んではいけない」と思った瞬間、心の流れを止めてしまう。
でも、怒りも悲しみも、見つめてみると、そこには「守りたいもの」や「期待していた何か」が隠れています。
観察とは、感情を否定せず、理解しようとする姿勢なのです。

この態度は、自然や他者に向けるときも同じです。
植物を育てるとき、すぐに「枯れた」「失敗だ」と決めつけず、
土の湿り気や葉の色、日光の向きなどを静かに観察してみる。
そうすることで、初めて“いのち”が持つリズムやサインが見えてくる。
人間関係や社会もまた、同じように呼吸をしているのかもしれません。

観察の本質は、「関わりながら、距離を保つこと」。
完全に中に入ってしまうと見えなくなり、
完全に外から眺めると、感じることができなくなる。
この“ちょうどいい距離”を探るのが、HARMONEERにおける「調和をつくる」という行為の原点です。

私たちが記録するのは、ただ出来事の羅列ではなく、
そのとき心がどう動いたのか、世界がどう響いたのかという“関係の記録”です。
つまり、観察とは「記録」でもあり、「祈り」でもある。
世界をコントロールしようとせず、ただ見つめ、受け取り、そこに意味を見いだす。
その静かな時間の中で、私たちは少しずつ、自分自身と世界との調和を取り戻していくのです。