偏見 ― 外骨格を脱いで、曖昧さと生きる

私たちは誰もが、少なからず「偏見」を持っています。
それは悪いことのように思われがちですが、
実は、心の成長の過程でとても自然なことです。

偏見とは、自分と世界のあいだに引く“仮の線”です。
ものごとを素早く判断し、危険を避けるための反射でもあります。
まだ経験が少ないうちは、その線がないと自分の立ち位置を見失ってしまう。
だから偏見は、ある意味で**外骨格**のようなもの。
柔らかい内側を守るための、一時的な殻なのです。

けれど、私たちはやがて成長します。
知識や経験が増えるにつれて、
その殻は少しずつ窮屈になっていきます。
誰かの考えや文化、背景に触れるうちに、
「自分が信じていた常識が、世界のすべてではなかった」と気づく瞬間があります。
そのとき、人は外骨格を“脱ぐ”決断を迫られます。

成熟とは、きっとその「殻を脱ぐ勇気」のことなのだと思います。
それは、簡単に線を引けないことを受け入れるということ。
白か黒かで判断できない、
曖昧で、矛盾をはらんだ世界の中で、
それでも自分の足で立ち続けること。

偏見を完全に捨てることは難しいかもしれません。
でも、偏見を自覚しながら、それに固執しないことはできる。
むしろ、偏見があったからこそ、
そこから抜け出そうとする力が生まれるのかもしれません。

ちょうど、昆虫が脱皮を重ねながら成長していくように、
私たちもまた、
古い価値観や小さな世界観を脱ぎ捨てながら、
少しずつ自由になっていく。

そして外骨格のない柔らかな身体で、
世界の複雑さや曖昧さ、矛盾や痛みをそのまま感じる。
それを恐れず抱えながら生きることが、
**「成熟」**ということなのではないでしょうか。

偏見は、悪ではなく、**過程**です。
そこを通らなければ、
本当の理解や共感にはたどりつけない。

HARMONEERが考える調和とは、
ただ穏やかで、すべてが整った状態ではありません。
矛盾や違和感を抱えたまま、
それでも共に在ろうとする姿勢。
それこそが、偏見の殻を超えた先にある「人のかたち」なのだと思います。